セブンのラストシーンで妻は死んでいない!テーマは七つの大罪ではない理由を徹底解説

昔に観て、「スゲー」と思った記憶があります。
当時は、ブラットピットの演技のみに集中して観てました。
ラストシーンの顔をくしゃくしゃにし、自分の中の天使と悪魔の戦い。
「圧巻の演技だな」と。
当時は全てここに集約されると思ってました。

しかし、改めて観ると違う視点で観ることができました。
いい映画のレビューは長くなります。
長いですがお付き合いいただけますと幸いです。

icco

満足度(0%)

まだみてない。

お杉

満足度(80%)

素晴らしい映画です。

「教育」がテーマになっている

今回は、内容について少し考えたいと思います。

色々と解説されている方もいますが、それはだいたいが「七つの大罪」について。
そして、「七人の死者」についてです。
「妻と、お腹の子供を入れて七人だ」
という見解などもありますが、私は、違います。

それは、映画の題名が「seven」で「七つの大罪」が主軸で話が進むというところから来ているかと思います。

しかし、「七つの大罪」については、ただのフックであり、全く意味がないと思うのが私の見解です。

そもそも、ジョン対ミルズ・サマセットと考えているところが間違いです。
ジョンはあくまでも、テーマを支える存在でしかない。
それは彼がそこまで重要な役をしていないからです。

この映画のテーマは、神学論でも、カトリック的な教義の話でも、善と悪でも、理論(サマセット)と感情(ミルズ)でもない。

「人を許す」かどうか、なのです。
そして、「許す」という言葉のみならず、
「人(々)どう変革させるか、どう成長させるか」
つまり、「教育」がテーマになってます。

ミルズの妻トレーシーは死んでいない

まず、「七つの大罪がテーマだ」を否定する必要があります。
まず申し上げたいのは、ミルズの妻トレーシーは死んでいないのです。
どうしても死んだとする視点が理解できないので、死んでいないとする理由を述べます。

ジョンがペラペラと言っていただけ

ラストシーンでミルズの妻トレーシーの頭は映ってないんです。

これまで散々残酷なシーンがあったのにもかかわらず、トレーシーの頭は映さなかった。

それなのに「なぜトレーシーは死んだ」という視点に立つのか。
死んだとはっきりさせたいのであれば、写すべきです。
ミルズが観なくても、観客には観せるべきです。
でも、その頭がトレーシーかどうかはサマセットしかわからない。
あとはジョンがペラペラと言っていただけなのです。

「トレーシーは死んだ」とする立場。
そこが他の方が行っている考察では甘いです。これはかなり甘いというしかない。
騙されてはいけません。

ただの職務として「撃つな」と言うか?

段ボール箱を開けたサマセットは、ミルズに言います。

「奴の罠だ」
「奴はお前に撃たせたいんだ」
「殺せばお前の負けだぞ」

と。

確かに、なぜ「入っていたのは、トレーシーではない」とすぐに言わなかったのか。
それはわかりません。

サマセットは途中から黙ります。
後述しますが、「ミルズは撃たない(だろう、成長したから)、でも、止めなければ」が先に来たのだと思います。

トレーシーと夕食まで一緒に食べ、楽しい時間を過ごし、個別にかなりプライベートな相談を受けたサマセット。
トレーシーに思い入れなしにただ職務として「撃つな」と言うでしょうか。
後輩の妻まで殺されて、警察として、そこまで崇高な精神でいることができるでしょうか。

それこそ狂気の沙汰です。
一般常識で考えれば、それはあり得ません。
そして、サマセットはことごとく一般常識に則って、冷静に対応したり、ミルズを叱ったりします。冷静さも怒りも、冷徹さも全て同時に持ち合わせているのです。
これは普通の人間です。普通の精神状態です。

ラストシーンだけ狂気で描くとは考えにくいのです。

仮に、そこが狂気であったとしたら、この映画の全てが覆されます。
つまり、ただのくそ映画になります。

電話がかかってくるが正体は?

次に、ジョンが捕まる前に、トレーシーから警察署に電話がかかってます。
ミルズは「またか」と言った顔をします。
これは、サマセットが夕食に誘われた伏線の回収です。

「トレーシーは殺された」という立場を取る方は、これをどう説明するのでしょうか。

もし、殺されていたとしたら、ジョンが言うとおり、ミルズが出た後です。

「その後に電話をした?」
「ジョンが電話をさせた?」
ジョンが殺したのであれば、ミルズの怒りを膨張させようと、「電話して最後に声を聴かせてあげたんだ」など、それなりの対応を取るはずです。

車の中でもそのような会話をしています。

しかし、ジョンはその電話の件には一切触れてません。

では、トレーシーは電話していないのでしょうか。
していないとすれば、あのシーンは不要です。むしろ、混乱を招くものであり、これも映画の格を下げます。

ジョンが誰かに電話をさせた様に仕向けたのでしょうか。
もしそうであるならば、ミルズが家に電話をした時点で映画が終わります。
ミルズは捜査から外され、ラストシーンにはなりません。
したがって、これも違います。

これらのことを鑑みるにトレーシーは死んでいないのです。
つまり、ジョンは、トレーシーを殺していないのです。

その他「ジョンがトレーシーを殺した」という確証がありません。
描かれていないのです。

血だけが根拠になり得るが…

ジョンが捕まる前の死体に別の血液がついています。
これは捜査官が言います。
つまり、これは別の人間の頭が入っていたことだと思います。
これのみが「トレーシーは死んだ」とする根拠として有力ですが、それと同時に「他の誰か」でも成立します。

また、ジョンは連続殺人犯です。今回以外に殺してても何の疑問もありません。

「トレーシーが殺された」とする説を唱える方は、全て「七つの大罪」に縛られているからです。

この映画のテーマは、「人(々)どう変革させるか」=「教育」

では、テーマについて、考察をしていきます。

私は、この映画のテーマは、「人(々)どう変革させるか」=「教育」にあると思います。

それがわかるようなシーンを列挙します。

まず、ミルズとサマセットが出会うとき、ミルズは出鼻をくじかれます。「何もしなくていい」と。

次々起こる事件でも一切意見を言わせてもらえないような関係になります。信頼されてません。

サマセットは、ミルズが足りない知識のフォローをしてあげます。

図書館では、たくさんの良書があるなか、トランプに勤しむ警備員がいます。
サマセットの話など聞かずに。

ミルズはサマセットに心を開くようになります。

そして、ミルズとサマセットはパートナーとして、成立し始めます。

バーで二人が飲んだ時の会話。
ミルズはサマセットの話を否定しますが、サマセットは言います。

「本物の悪魔じゃない、彼も人間だ」

「人々は英雄なんて求めてない、平凡に暮らしたいだけだ」

「無関心が美徳であるような世の中はうんざりだ」

しかし、

「俺にも十分わかる 無関心が一番の解決だ」

そして

「俺たちは(凶悪犯罪という特質な話ではなく)日常の話をしているんだ、お前はウブすぎる」

と。

次にサマセットは定年の日を迎えます。
しかし、その日を超えてもミルズと事件を解決したいと思うようになります。

すると、ジョンが警察署に自首します。

ジョンと現場に向かう準備をする二人は、親子、親友のような冗談を言い合う会話をします。

そして、ラストシーン。
ラストシーンでは、届け物が着た後、ジョンがミルズに「トレーシーを殺した」と話します。
サマセットは、その届け物の中身を見て、ミルズに「ジョンを殺すな」と言います。

そして、最後は、署長(?)が「面倒は見る」と言います。
サマセットは「ぜひとも」と。
多分、署長はサマセット自体のことも気に掛けていることの現れです。

サマセットからみた登場人物

これらからわかるように、サマセットとミルズが中心の話なのです。
そして、全体的に「人を育てる」話になってます。
「人(々)どう変革させるか、どう成長させるか」=「教育」これが一番のテーマなのです。

サマセットの行動一つひとつが、
「ミルズを育てよう」
「立派な刑事にしよう」
という愛情が溢れています。

ここが理解できないと「七つの大罪」に縛られてしまいます。

サマセットとトレーシー「母として強く生きなさい」

サマセットは、あんなに邪険に扱っていたミルズの奥さんトレーシーの夕食の誘いを受けます。

また、トレーシーの妊娠の相談にも乗ります。
そして、ミルズが傷つかないようなアドバイスをします。
「自分と同じような運命を辿らせたくない」と。
これは直接的な話はしないのです。
ある意味、トレーシーをも教育しようとしている。

「母として強く生きなさい」と。

それを不安を抱えるこれから命を育む母と、大切な後輩を見守る心の大きさを感じるワンシーンです。

サマセットとミルズ「後輩にそういう思いをさせたくない。させない!」

そして、バーのシーンです。
悪を絶対に許さないミルズに対し、
「本物の悪魔じゃない、彼も人間だ」
「人々は英雄なんて求めてない、平凡に暮らしたいだけだ」
と助言をします。

そして、それを否定するミルズに対し、
「いろいろあったのさ」
「無関心が美徳であるような世の中はうんざりだ」
と。

これは、後輩の成長に無関心であることの対比です。

他人を人と思わない社会に対する批判です。

そして、足下を掘ったが故に、後輩を成長させようとしているのです。

より良い社会を考えるとき、本物の平和を考えるとき、自分だけの幸せではなし得ません。

隣近所で、友人が、家族が不幸であれば、自分も不幸です。
回りまわってきます。
これは、伏線として、署長(?)とサマセットの定年後の会話で出てきます。
それを認識すると、自分の周りを、まず幸せにしようとするはず。
つまり、サマセットにとっては、社会をよくする第一歩が、自分の後輩のミルズの成長なのです。

つまり、
「どうにか、ミルズに成長してもらいたい」
「どういう風に、なにを伝えれが伝わるのか」
「ミルズよ、成長してくれ」

そして、ミルズに、「人を許す」ことを学んでもらいたい。
なぜならば、完璧な人間はいないから。
そして、社会は簡単に変わらないから。
悪を許さず、人を許さず、社会を許さず、悪と決めつけ、私が愛する人に中絶をさせたように。
そんな後悔をする人生を歩んでもらいたくない。

これがサマセットの心情にずっとあるのです。
そして、「後輩にそういう思いをさせたくない。させない!」
親ごごろなのです。

これがサマセットの思いで、今回のテーマです。

そうでなければ、トレーシーとの会話で、
「(中絶をさせるのとは)違う決断をしてればと思わない日はない」というセリフにはならないのです。

ミルズの成長のための事件解決

そして、ずっと、「もう定年を迎える」といっていたサマセット。
しかし「まだ残りたい」と言います。
理由は、ミルズの成長度合いに合わせてのこと。
このままこの事件をミルズが一人で追うと、破綻する。
そう思ったからです。

なぜそう思ったか。

それはミルズはだんだんと成長します。
日を追うごとに責任感が芽生えてきます。
しかしながら、バーでの発言で、「やはり根幹は変わっていない」
そう思うのです。

そして、この事件が続く上で、だんだんと解決に進む上で、自分というストッパーがいなくなれば、ミルズはつぶれる。
その上での判断。

つまり、引退を間近に控えたサマセットにとって、ミルズの成長のための事件解決であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

それは、署長との会話で、「私にはついていけない」「君の天職だ」という会話があります。

サマセット自体が、ミルズと向き合う中で成長しているのです。
サマセットの中に、ミルズを成長させる責任感が芽生えてきているのです。

「七つの大罪がテーマだ」ということを否定する

ここまで話すと、この映画が「人(々)どう変革させるか、どう成長させるか」=「教育」がテーマであることは否定できないと思います。

では、たくさんの方が上げている「七つの大罪がテーマだ」ということを否定をします。

まず、そもそも、「トレーシーが死んでいない」これが一番の理由です。
それは前述しています。

ミルズもサマセットも「神」に祈りを捧げていない

次に、ミルズもサマセットも「神」に祈りを捧げていないのです。
つまり、二人とも神に対する信仰心がない。
それは、神学がテーマではない現れになります。

ラストシーンでミルズは「神よ」と言います。
しかし、これは祈りでしょうか。
キリストが対象でしょうか。
自分の力を超えた何かに対して、現在起こっていることの怒りを表現しているようにしか見えない。
信仰心からくる「神よ」ではなく、よく言われるような「神さま、仏さま、〇〇さま」のようなもの。
つまり、信仰心はないのです。
むしろ、あったとしたら、この世の中を憎みません。

例えば、ミルズかサマセットがすごく信仰心の強い人物だとすると、神の代わりをするジョンは、宗教的観点からの「悪」になります。
しかし、セブンでは、悪の定義は、一般的な犯罪などの「悪」なのです。

つまり、宗教的観点からの「悪」ではない。
この点において考えても「七つの大罪」はテーマではないのです。

むしろ、「七つの大罪」をテーマとする解説や評論は「seven」という映画を利用して、神学に興味を持たせるように仕向けたものです。
そのような解説は、宗教心を利用した最低な解説です。

つまり、「七つの大罪」はジョンが勝手に引っ張ってきたものであり、作り手も観る側も関係がないのです。

死んだ人間と「七つの大罪」との関係性

では、もっと深く否定します。
「七つの大罪」に当てはめると、

暴食→スパゲッティの太った男
強欲→弁護士
怠惰→なし
色欲→売春婦
傲慢→モデル
嫉妬→なし
憤怒→なし

になります。
この中で、追加、死んだのはジョン。
仮説としては、トレーシーとトレーシーのお腹の子供です。

しかし、トレーシーとお腹の子供はどこに当てはまるのでしょうか。
トレーシーを怠惰として捉えることは、無理やりすればできます。

「環境に馴染めず、子供ができたことを夫に伝えなかった」
環境に馴染まなかった怠惰、子供を育てることから逃げる怠惰。

しかしながら、怠惰であったらなら、最も街のことが詳しいサマセットに相談をするのでしょうか。
本物の怠惰は、現実を受け止めず、そのまま流れに任せるのではないでしょうか。
つまり、子供も産み、しっかりと育てもせず、それなりに生活をする。可もなく不可もなく。

ジョンはどこに当てはまる?

まずは、ジョンから考えます。
ジョンは怠惰ではないのです。
彼なりに社会変革をした行動が「七つの大罪」に沿った社会浄化計画です。
もちろん、許されるべき行動ではないですが、彼の基準においては、怠惰ではないのです。
彼にとっての神に代わる正義感なのです。

嫉妬。
ジョンは何に嫉妬しているのでしょうか。
そして、それを自分と位置付ける動機、根拠、また、「自分が死ぬことで変革をすることができること」の理由がないのです。
ミルズに多少、家庭のことを言いますが、それは怒らせようとして言っているに過ぎません。

憤怒。
ある意味、ジョンがこれらの行動を起こしたきっかけは憤怒です。
当てはまるとするとここになります。

しかしながら、憤怒というよりも、ジョンの定義からすれば、ジョンなりの正義感です。
したがって、ジョンそれ自体が、自分を憤怒と捉えると考えるのは、無理がある。
仮に、他の人間を殺してしまったことに対して、「神」に罪を乞う形で自分の死を選択したとすれば、それは自決しかあり得ません。
なぜならば、ほかの人に罪を着せてしまうから。

つまり、前後の流れからしてもその選択肢はあり得ません。

これだけでも十分わかりますが、さらに追及します。

トレーシーはどこに当てはまる?

トレーシーは怠惰ではないのは前述通りです。

では、トレーシーに嫉妬、憤怒があったのか。

残念ながら、嫉妬は描かれてません。
憤怒ということで言えば、転勤してきても朝から仕事をするミルズ。
うるさい家。
喧騒とした街。

他にももっとわかりやすいターゲットがいるはずです。
「ジョン」の目的である社会変革を成し遂げるためには、トレーシーを殺したところで意味はない。
人々の記憶には残りません。
ミルズが言うように二ヶ月後には忘れます。

したがって、トレーシーを怠惰、嫉妬、憤怒に当てはめるのは無理があるのです。

お腹の中の子供はどこに当てはまる?

次にトレーシーのお腹の子供。
この子になんの罪があるのか。

ジョンはそこまでバカではないです。
精神異常者で犯罪者ですが、自分なりの正義の上に行動をしています。

したがって、「お腹の中の子供に、命がある時点で罪がある」という決断に至る愚行をするとは思えません。

もっと言えば、「七つの大罪」がそれによって、絶対に不完全なものになります。

つまり、罪があるから殺すのであって、罪のない人間を殺すことは、それ自体が偽物になります。
これらからわかるように、お腹の中の子供は死んでいないのです。

神学的に言えば、産まれ持って人間は悪の一面を持つと言いますが、それは選択できるようになってから。
そこまで飛躍した解釈をジョンがするとは思えません。

そして、映画は、そういうただ理解ができないことをしないのが、ルールです。
精神異常者であっても、それはそれのルールに則って、前後の整合性を取って行動する必要があるのです。

映画における整合性

映画では整合性を取らなければいけません。
取らなければ、何か別の意味を持たせます。

例えば、冒頭に落ち込んでいた青年がいて、次のシーンで元気になったりします。
考えられる可能性は次のものです。

①時間経過の間に何か元気になること柄があった。
②時間が過去に戻った。(過去は元気だった)
③なんらかの病気などを持っている役。
④整合性が取れていない。

です。他にもあるかもしれませんが、整合性が取れていないだけで、これだけの意味が出てきます。

つまり、意味を持たせない場合は整合性を取らなければいけないのです。
整合性が取れていないと考えるのは、駄作のみで、名作では考えられません。

これらから分かるように「七つの大罪」と「七人の死者」は成立していないのです。

「七つの大罪」は不成立がテーマでないことの現れ

そして、「七つの大罪」については、ジョンの計画の「怠惰」が失敗していることで、すでに破綻しています。
そもそも、つながれていた彼が「怠惰」かどうか怪しい。
むしろ、怠惰であったことがわからないのです。
彼が行ったことは、少女暴行、麻薬、強盗です。
その前後は描かれていない。
つまり、これは「怠惰」と決めつけることができないのです。
ジョンは車の中で少しだけ言及しますが、あまり触れていません。

もし、「怠惰」を表現するのであれば、国会議員などでしょう。
長いものに巻かれて、こびへつらった姿勢。
自分の地位と名誉を守るためだけに必死に生きる姿。
それらは怠惰と言わず、なんと言うのか。
彼は弁護士を殺しています。
では、議員も殺せるはずです。

しかし、それとも違う。

つまり、もうすでに「七つの大罪」は破綻しているのです。

その破綻した時点で、それがテーマではないことは一目瞭然です。
あくまでも、それをひっぱることで、ドキドキさせるエンタテインメント的な要素でしかないのです。

私は、それをこぞって各レビューで、わざわざ神学を取り出して解説していることが、私は悲しい。
その説を提唱する人は、映画の本質を、人間の本質を分かっていない証拠です。

それこそ、サマセットがいう本質的な「無関心」である。

人を育てることが「無関心」ではないということ

サマセットが言うように人を育てることは大変で苦しい作業です。

それは、どうしても、自分とステージが違うから、捉え方が違う。
そして、個性が違うから、捉え方が違う。

その上で、相手を守り、導き、成長させなければいけない。
人を成長させることは、苦しいし、辛いし、大変だし、労力もかかる。
いわれなき批判にもあい、去られ、裏切られることもあります。

それが人を育てることで、「無関心」ではないということなのである。
そして、その積み重ねが、社会を変革し、より良くするものにつながるのだ。

ちなみに、マンションでの撃ち合いで、親の部屋から、テレビを観ている子供たちのシーンがあります。
これが人に対する、教育に対する「無関心」さを如実に表しています。
必死に育てていれば、拳銃を持った他人がいきなり部屋に入ってきたら、子供を守る。
しかし、子供は、ゲームを続けている。
親も近づこうとしない。
そして、「あっち」と指さすのだ。
なんて無関心なのだ。

最後に

本気で人を成長させようと思わなければ、この映画の本当の意味を捉えることはできないです。
どこかで、「彼は彼、彼女は彼女」と思っているうちは、理解すらできないです。
ただのサスペンスで、精神異常者の殺人ゲームで、人間の悪を描いたホラーと捉えると思います。
少し思考を凝らし、神学を述べて、自分の知識をひけらかす。

残念ながら、それは、まだ、あなたが「育てられる側の人間」だからなのです。

だから、サマセットは心を鬼にして、「ミルズは撃たない(だろう、成長したから)、でも、止めなければ」という行動に出たのです。

デビットフィンチャーはただのサスペンス名監督ではない。

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確かに頭は映っていないので、殺されたのかははっきりと分かりませんね
一つの考えとして面白かったです
私はもっと単純に考えてます

鈴木さん、ありがとうございます!!
色んな考えがあって然るべきかと思います。
しかし、どのレビューも死んだと確定して話していたので、違う角度から解説させて頂きました。
また、映っていないのに「死んだ」と思うのは、「モンタージュ」効果をうまく利用しています。
映画を作る人にとっては非常に勉強になる手法です。
観ているほとんどの方が「死んだ」と認識していますので。



セブン

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お杉

僕の記事を読んで、新たな視点で映画を観れる機会ができればうれしいです。 基本的には観ている人向けに書いてます。 アイコンに引っ張られずに、記事だけ読んでください。 お願いします。アイコンには引っ張られないでください。 お願いします。